28 誰のために、何のために。

試験がとりあえず終わり、休日の不安要素が一旦消えた昨今。平和な休日を過ごす。
ひょんなことから大学生と飲む機会があった。後輩とかではないから、バックグラウンドを共有しない、純な大学生。

大学3年生はもう、就活の次期に入りつつあるようだ。

聞けば、何がやりたいか、はっきりした希望もなく、ただ、就活へと進んで行く身の回りとのギャップに、何となく違和感を感じているよう。

個人的には、その感覚は極めて正しい感覚だと思うし、いわゆる文系学生、大学ではただ何となく遊んで過ごし、突然目の色を変えて就活!就活!なんとなく「社会」のスタンダードにあわせるのが唯一の解だという(ように見える)世の風潮にものすごい嫌悪を感じる自分にとっては、とても頼もしい悩みだとも思う。

理系、そして建築学科出身の自分のまわりは、常に世の中に敏感であるし、その世の中を何とかして豊かなものにしていきたい、という確たる信念をもって色んなフィールドに飛び出していく人が多い。
そんな中でも現実は予想以上にシビアだし、自分と社会の関係性で悩もうと思うのに、気付けば自分と仕事の関係の中でボロボロになってしまう。ということもザラだと思う。

そんな世の中、単純に社会の一員になりたい、世の役に立ちたいというだけの願望だけで仕事を選んでも、理想が曖昧すぎて、一対一の貢献しか認知できない、要するに人の要求をかなえることに満足している一方でその要求の社会的妥当性が全く検証できない人間になっていくだけなんじゃないかと思う。

だからこそ、くだらない大人の事情を考慮しないで世の中を見ることができる学生こそ、自分が世の中でどういう位置に置かれているのか、これからどこに身を置くべきなのか、何が自分の理想で、何が自分にとってどうでもいいことなのか、その感覚を研ぎすませるのに最もふさわしい時期だと思う。

学生の理想なんて世に出ればすぐに叩き潰されるかもしれないけれど、叩き潰すものがないまま何となく働くひとが世の中に貢献なんてできないでしょう。会社には貢献できても。

やりたいことはなんでもやればいい。(でも社会人のまねごとなんてしなくていい。インターンなんてどうでもいい)学生で何が悪いと、悪態をついてもいいくらい。そんな気持ちでやっていけばいいと思う。

とはいうものの、本当に言うのはタダ。自分のできなかったことをぜひやってほしい。なんとだってなる。なんて言ったところで、自分自身ではなんとだってなる、という確たる自信が持てなかったから、できなかったこと。結局は本人の度胸に選択をゆだねなければいけない。

でも、働き出してなお、ああいう自分もあり得たな、とか思ってしまうという状況は、これから色々な選択をする世代には回避してもらいたい、というのは純粋な願望なのです。

別に私は悟った人ではないけれど、まだまだ色々考え悩むんだけど、とにかく、がんばれ、大学生。

I'm free to be whatever I.ってリアムも歌う。