016 "僕には"

どうやら他部署で伝家の宝刀、「最近の若いヤツの考えてることはわからん」が、でたようです。要注意。
ただまあ、重ね重ね言いますが老人が我々の考えていることがわかるようになったらもう人類は長くないでしょう。

さて。
自分でも結構本を読む方だと思っているが、よく人に指摘されるのは「昔の人ばっか。」大体20世紀の枠にはおさまっているが。
最近の作家を読まないのは、最近の文学はつまらないから。というと完全なるかっこつけである。たまたま読んだ本から次の本へとわたってきたので、どうしても現代にはまだたどり着けない。そして、最近の作家の話と言えば、まわりはみんな大衆文学作家なんだが、そもそも読書の目的がちがうので、あまり興味がない。
興味があるのは面白い話、泣ける話、考えさせられる話・・・とかそういうストーリーではなくて(そういった物は映画で見たい)、小説のところどころで読み取れる作家としての生き方に対するスタンスのほう。そういったものが得られるのは純文学の方だと素人読者の私は思っています。
ただそんなことを言いながらも最近の作家も少し読んでいて、その中で最も上手い(言い方が上からでしょうか)と思っているのは堀江敏幸氏。実は同郷、高校の先輩でもある。高校3年間で毎年、卒業生の講演会があったのだが、大体そういうのはめんどいと思う高校生の割には堀江氏の講演は面白かった記憶がある。
ちなみに、一番つまらなかったのはどっかの理系大学教授。これだから理系は人気ないんだな。
堀江さんの小説は、日常の何でもない出来事を中心に書かれていて、全体を通したテーマ設定が日常にほんの少し、色味をつけている(と思う。)。半エッセイ的小説も多い。待つということ、日常を生きるということ。思索にふける・・。日常の些細な出来事をつないでいく小説なのに退屈しないのは、表現の端々で感じられる作者の芯の通った意思が自分のこうありたい、という意思と通じるからだと思う。
日常を出来事だらけにして、人生を目的だらけにして日々生活している人とは自分は絶対に違う人種だと思っている。でも、やっぱりこれくらいの年齢になってくると人生に目的がないと、日常も何かしないと、という焦燥に駆られる人が多く、そこから外れることの心細さというのが自分にはまだある。
堀江氏のインタビューでのこの言葉
「日常は、地震計のように跳ねる大きな振動ではなく、遠くから見ると直線に見えるほどの小さな浮き沈みで成り立っている。それは退屈に見えるかもしれないが、僕には退屈ではない」
今の自分にまだ足りないのは、この"僕には"の強さだと思う。

こんな人が書く日記なので、大きな出来事はありませんが、まだ続けます。
病んではいません。これから飲みにいってきやす。