24 非日常生活

地震が起こってからもう二週間とちょっとになる。
会社の上層階で地震を体験し、帰宅困難者になり、12キロ歩いて深夜に帰宅した。まあそんなに距離はないが貴重な経験であったか。
帰宅するまでは、東北の津波に関してはすごいらしいというような情報しかなく、二週間経ちいまもふくらみ続ける犠牲者数、深刻化する原発事故など、歴史的災害になることなど頭になかった。
被災された方々にはお見舞い申し上げると同時に、この場では、自分の身の回りのことを中心にしか物事を解釈できないことをあらかじめお詫びしておく。ごめんなさい。

さて、14日のホワイトデー、驚いたのは電車がほとんど動いていなかったことである。幸いにも最寄りのJR駅は折り返し運転のターミナルになっていて、座っていつもどおりに出社できた。しかし、神奈川、埼玉、千葉方面の方々は基本的には出社できず、その日は夕方には帰宅することとなった。それ以降、その週は計画停電の開始のごたごたで終日仕事をする雰囲気ではなく、帰宅時間が早かった。22日からの週は、世の中が徐々に慣れはじめ、会社は普通に戻りはじめた。ただし、原発の影響が徐々に都内でもささやかれはじめて水は店から消え、というかガソリン不足だか何だか知らないがスーパーもコンビニも食料が少ない。

自分がみたtwittermixi、blogなどなどでは(災害時のネットの強さには正直驚いた。)、こんなときだからこそ頑張ろう!とか、経済を止めないようにしよう!という記述が目立った。それに対して、自分はどう思うかというと、果たしてそういうものかなぁと。卒業式の自粛、イベントの自粛は節電など言い訳で、要するに何となくそういう雰囲気ではないという判断、「不謹慎」と言われることへの恐れであって実にさみしいものである。かといって、11日の夜の帰宅する人たちの大行列、駅のパニック状態をみてののち、14日の朝、必死で会社に行こうとするものすごい数の人、仕事ができないと怒りながらインタビューに答える人をみてもなお、経済を!というがんばり屋精神には正直うんざりしてしまう。気分が乗らないなら少しくらい落ち込んだっていいし、会社に行く手段がないなら無理していかなくてもいいと思う。そういうのを責任という言葉で意味あることのようにして、結局行き着く先は消費生活のための消費なんていうのは本当にバカバカしいと思いませんか。

地震の後の東京を見てとにかく思ったことは、東京の経済、首都圏の人の日常生活も全て、とにかくあり得ないくらいの規模のものを成立させるために、あり得ないくらいの回転をさせていたということである。誰がみたってそう思うはずなのに、経済をまわすというようなことを言って必死こいて会社にエクストリーム出社する必要など本当にあろうか。経済をと言っているけれど実際自分の仕事がどうなるかわからないからマズいと思って出社した人が全体の大部分を占めていたのではないか。

これを機に経済のダウンサイジングができればいいのに、と思った。電車の本数が減って、街が暗くなって、コンビニは減って、お店ははやく閉まっても慣れる。会社の仕事も減ればいい。みんな早く帰ればいい。もっと質素に暮らせばいい。どうして日本の人たちは、世界から見ても異常なほどの物の充実、過剰な充実を当たり前だと思うようになってしまったのか。そう思った。

もう一つ。頑張ろう!という積極性は非常にすばらしいことだし、大いにやってもらって構わない。しかし、実際に何もできないひとが頑張ろう、ニッポンみたいなことを書いているのをみると、謎なナショナリズムの発生にみえてこういうのは気持ち悪い。一時的な高揚ではいけない。とにかくこう言う時こそ冷静に日常生活を見つめるべきで、その中で何かできることをすればいい。

・・一応、私日本大好きですからね。反日とかそういうのじゃないですよ。

こういうことを書いていると、ではなんで地方からきたお前が東京で生活しているんだ、地元戻れと自問してしまうけれど、そういったことは個人的には初めての都知事選にからめてでも書くとして、今回はこの辺で。

夏の停電、食品への影響など、いろいろあるかと思いますが、落ち着いていきたいところです。